報道の仕方にしても、各テレビ局やネットメディアの対応の違いや、
また原発事故や計画停電に際しての各所の温度差。
ひとつ言えるのは、ネットの存在がなかったらこうまで違和感を感じることはなかっただろうということだ。
違和感というのはからだが感じているということだ。
じぶんのからだは嘘をつかない。痛いときは痛いと声を上げるし、疲れたときは休息を欲する。
身を削って得た実感とそれによる支援は、絶対に嘘にはならない。
糸井重里のいう「自分の3日分の賃金を募金に」というのは、文字通り身を削ることで得られる確かな実感と、それによる支援だ。節電も生活を削る行為である。
震災直後からずっと感じていた違和感がある。
「こういう時だからこそ音楽を/演劇を」という声だ。主にツイッター上で駆け巡ったと思う。
震災当日の夜から中止になる公演も相次いだし、交通機関がマヒした状況のなかで強行されたものもあった。
その思想、想い自体は否定されるものではない。僕も同様に思う人間である。
ただ、それは今ではない。
この違和感の正体を突き詰めていくためには、知識と経験を紐解かなければならない。
おそらくは、「アーティスト」と「興行責任者」が合一であることによる混乱、というか混同であろう。
ある程度規模が大きいものであればこの二つは別である。アーティストはメッセージを届けるし、興行責任者は興行自体の社会的存在意義を明確にし、来場者の安全を確保する。
しかし、市井のライブハウスや小劇場で行われる公演は、アーティストがそのまま責任を負う形で興行が成り立っているので、アーティストの姿勢がそのまま興行態勢に滲み出てしまうのである。
そして、おそらくほとんどの場合は、この事態に際し、詮方ない自らの身の置き場を表現の場に求めたにすぎないのである。
自己満足とまでは言わないが、
自らの存在を社会的に意義のある存在にまで無理に高めようと、殻で塗り固めているのである。
ただ、規模が小さくても、たとえばジャズバーで行われるジャズライブなどは、責任者である店主の裁量で行われ、ミュージシャンはあくまで「仕事」として演奏するわけなので、分けて考えねばならない。
問題なのは「仕事」ではない「遊び」の領域で多くの人を巻き込んでしまうことだ。
今は、アーティストである以前に、一人の社会人として、そして日本人として、できることを考えねばならないときだ。
アーティストという人種は、ただでさえ自己意識が強い。「今の自分にいったい何ができるのか」と責め立ててしまうことも多い。
しかし一人の人間にできることなど限られている。
すでに多くの人が言うように、自分の出来る限りの支援をし、協力をして、経済活動が回るように日常を送ればよい。
自分の「使命」を考えるのではなく、自分に「可能」なことを考える。
それが今だ。
そもそも「こんな時だからこそ音楽を/演劇を」という声は、「こんなときに芸術なんて」という声のアンチテーゼから出てきているものです。
いま現在の僕はこっちの声にどちらかと言えば共感しますが、おそらく時が経てばそれは変質し、震災に託けて芸術文化を非難する声に反駁を感じていくことでしょう。
そんなときに、おそらくは当代最高の演劇人である野田秀樹の言葉が大いに力になると思うのです。
「劇場の灯を消してはいけない」
〜この東北関東大震災の事態に上演続行を決定した理由〜http://www.nodamap.com/site/news/206
当代最高の演劇人であるということは、優れたアーティストでありながら興行責任者でもあるということなのだろう。
それが今の日本を取り巻く芸術文化の現状でもあるが、それはまた別の話。